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赤松正行個展「タレスの刻印」(2022年9月11日?10月2日 NEORT++) レビュー 
タレスの刻印|深遠を受け止めること

四方幸子(特別非常勤講師/キュレーター、批評家)

 

Ⅰ. 世界とは?

夜空の星を見ようとする時、私たちは立ち止まる。もしくはどこかの場所にとどまっている。もちろん歩きながらも星は見えるが、星や星座と向き合う時、私たちは動かない。天体望遠鏡も固定して使用する。観察や観測は、行う側が静止していることが前提となっている。
夜空を見上げると、星は静止して見える。しかしゆっくりと移動しており、一晩をかけて夜空は大きく転回する。星に限らず、世界は変化をつづけている。それを知覚し観察する当事者の環世界において、静止であれ変化であれ異なる様態で受容されるのだろう。世界は、知覚する側と知覚対象との関係性において多様なかたちで生起する。そしてその背後には、宇宙の全てのものを存在かつ稼働させる法則があるだろう。
今、私は室内で静止状態にある※1。しかし地球は秒速約300Kmで公転している。地球が属する太陽系は秒速230Kmで天の川銀河の中心周辺を回り、天の川銀河は秒速600Kmで宇宙空間を疾走しているという。その規則性とダイナミズムに驚き目眩を覚えながらも、それを体感することはない(一定の速度で動いているために感じない)※2。視点や場所、スケールに応じて、世界は異なるものとして立ち現れる。
人類はその起源から、世界を感知し観察?把握?記述することで生き延びてきた。世界各地でいくつもの文明が生成消滅してきたが、とりわけ近代以降、現在に至る約300年間に著しく発達した科学や技術が人間の知覚や身体を拡張し、私たちの世界観を形成している。それは人間を主体としたものであり、宇宙を含め世界のあらゆるものを対象として物理的もしくは知的に所有しようとする欲望とオブセッションに支配されている。
そもそも人間は、宇宙の片隅に一時的に現れたあぶくのような存在である。そのような存在が宇宙を解明することは、(現段階にまで到達した事実に驚嘆しつつ)論理的にも実際的にも不可能である。しかし宇宙や世界を知ろうとする探求が止むことはない。それは人間が、自身の由来や存在意義を知りたいという根源的な衝動をもつからだろう。
「私たちは超新星爆発の宇宙の塵からできている」と素粒子物理学の村山斉は述べているが、まさに人間は宇宙から生まれ、宇宙の一部である。生命や人間存在の背後には、宇宙の摂理がある。そのような中、人間は、自身や世界そして宇宙を対象化する視点を得た両義的存在といえる。
インターネットが普及し、デジタルによるデータセンシングや解析、可視化が進んだ現代では、世界の観察?把握?記述は人間だけにとどまらない。むしろ地球上や地球外に設置された様々なセンサーがネットワーク化し、データベースと連携しながらアルゴリズムを介して世界が可視化されている。もちろんシステムを開発したのは人間であり、取得データが私たちに知覚認識可能なフォーマットをとる意味では人間主体的ともいえる。しかし同時にミクロ、マクロスケールの膨大な情報を得ることで私たちは、これまで人間が感知しえなかった宇宙や世界の動きに触れることになった。それは人間を超えたものであり、人間中心主義的世界観の外部にある。
かつてベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』(1936)において、スローモーションなど映画技術が可視化した人間の肉眼を超えた世界を「視覚的無意識」と呼んだ。この言葉に倣って筆者は、デジタル技術によって可視化され始めた世界のあらゆる事物が潜在させている情報を「環境的無意識」(2012)と名付け、それらが開示されることで人間を超えた(モア?ザン?ヒューマン)的な世界把握へ向かう可能性を検討してきた。そのような視点から、赤松正行の新作「タレスの刻印」を見てみたい。


展覧風景

 

Ⅱ. 自然と<共働>したドローイング

タレス(紀元前624年頃 – 紀元前546年頃)はプレソクラテス時代のギリシャの自然哲学者で、数学や天文学にも長けていた。自然哲学は、地水火風を基盤に万物を生々流転するものと捉える思想で、タレスは「万物は水なり」という言葉を残している。動的な世界観に生きていたタレスだが、星空を見上げながら歩いていて道端の溝に転倒した、というプラトンによる逸話が残されている。彼の知覚と意識は地上から遠く離れ、夜空の星々そして宇宙にまで到っていたようだ。移動しながらの観察、というその特異性に赤松は注目し、移動するタレスの眼や脳裏に映ったであろう星々を想像し、本展を「タレスの刻印」としたという。ここでの「刻印」とは、移動するタレスにとっての知覚体験であるとともに、可視化されないものも意味するように思われる。
会場では、全周囲となる壁四面にダイナミックな光の軌跡の映像がプロジェクションされている。コンピュータグラフィックスと見紛うほどだが、天空を移動する星々の軌跡を実写しタイムラプスで表示したものだという。つまり空間全体が、夜空の広がりとそこで繰り広げられる星々の運行(パフォーマンス)を体感できる作品となっている(実際、平衡感覚が揺らぎ始める)。空間内には光の軌跡の静止画がパネルで吊られ、一つとして同じものがない現象のいくつかを切り取ったかのようである。空間中央には、スマートフォンや付随する機器を搭載した三脚が置かれている。軌跡を現地で捉えた実際の装置である。カオス理論のアトラクタのように螺旋を描く多様な曲線や点線は、いずれも美しく、背後にある宇宙や世界の不思議へと想像力を喚起する。これらの軌跡はスマートフォンやデジタル?カメラで撮影されたものであり、事後編集は最小限としたという。
映っているのは、それぞれとある夜にとある場所である方向(範囲)に向けて設置されたカメラを「眼」とした天体の運動であり、星々の軌跡である。撮影は、数十分から数時間の長時間露光によるもので、カスタム?メイドの装置をデジタル制御しカメラを移動させている。それに加えて星以外の事象—流星やISS、月、雲や雷、また飛行機や人工衛星、蛍の光など—も刻印されている。規則的な描画に加え、一種ノイズ的なこれらの介入が、画像に偶然性を加えている。
赤松は、刻々と変化する天体そして周囲の環境と自身の間にカメラと制御システムを置くことで、肉眼で見えない動的な事象(軌跡)の可視化そのものに焦点を当てている。毎回異なる環境が、「タレスの刻印」の舞台となる。場所、時間、気象の違いに加え、星々をいかに切り取るかで撮影ごとに異なる結果を生み出していく。赤松は、頻繁に現地で夜を過ごし何度も実験を重ねてきた。投入した時間や試行錯誤から得た知見やデータに基づき、カメラの位置や動き、シャッター頻度など複数のパラメータをその都度設定する。その上で、撮影段階では成るがままに委ねるという。天空や気象、季節など毎回異なる条件に偶然性が加わって毎回予想外の画像が映し出されるが、実はそれこそが赤松が待ち望むことである。
自然には、正解も失敗もない。世界に起きることをあるがままに受け入れること、自然に感応すること。それは人間中心主義から離れた境地であるだろう。赤松は光の軌跡を、水に垂らしたインクが複雑なパターンを形成する墨流しに例えている。墨のパターンを紙に写し取るように、赤松は星の移動を画像として「刻印」する。そこではタイミングも重要である。墨のパターンが崩れる前に転写するように、夜明け前にカメラを止める必要がある。夜に赤松自身の手で止める場合も、タイマーを設定し一晩稼働させる場合もある。
そうして得られた軌跡は、星や自然との共働によるともいえるだろう。3年に渡って撮影された画像は膨大である。そこからは赤松がフィルター(そして「作者」)となり、彼ならではの美や構成への志向を反映した展示として結実した。


1枚目:展覧風景
2枚目:撮影装置

 

Ⅲ. モビリティ:iPhoneそしてサイクリング

夜空の撮影と抽象的な星の軌跡で構成された本展は、赤松のこれまでにない側面を見せている。しかし思い起こせば今回の展開は、彼の中で数年をかけて準備されていたように思われる。
赤松は1990年代以降、Max/MSP/Jitterの申し子的存在として、オリジナル?プログラムを含めインタラクティブな音楽や映像作品を精力的に制作してきた。2007年にはiPhoneにいち早く注目し、アートに限らず数多くのAppやAR作品を発表、並行してスマートカメラやメガネなどアートと社会をつなぐ製品開発にも携わってきた。とりわけiPhoneを使った作品やプロジェクトは、「モビリティ」と「リアリティ」をテーマとした探求へと進み、2010年代後半以降、屋外での活動へと拡張していった※3
筆者は2012-2019年にIAMASにおいて赤松と前林明次と共同で授業を担当した。その間計8回、毎年初回に3人でトークを行なってきた。東日本大震災直後の状況から欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网感染症が猛威をふるう前年までで、身体性への注目や社会的な関心が年々高まっていった感がある。初年に東日本大震災の話をしたところ、「自分はすでに神戸で被災している」※4と赤松が語ったことが今も忘れられない。
赤松は2010年代からアプリ開発のために始めたサイクリングから新たな世界を開いていく。自転車による移動で近郊の自然に親しむ中で、iPhoneのモビリティにフィジカルなモビリティを加えた思考と実践を積み重ねていった。2016年には、サイクリングを楽しみながら自転車やサイクリングの意味を批評的に検討する「クリティカル?サイクリング」を立ち上げている※5。身体的な移動を伴うフィールドワーク的な実践と理論の相互往還をメンバーと共有しつつ行なう試みで、「クリティカル?サイクリング宣言」では「理性と野生、都市と自然、ヴァーチャルとリアルを接続」※6する方向が打ち出されている。その後2020年4月には、各自が自転車で走りながら遠隔的にコミュニケーションをとる「新型グループライド」※7 へと展開、コロナ禍の危機的(クリティカル)状況を逆手に取った、批評的(クリティカル)かつ伸びやかなプロジェクトである。
2019年頃から赤松のTwitterでは自然の風景やアウトドアでの料理がアップされ始め、頻繁に自然の懐にいることを筆者は知るようになる。サイクリングで近郊へと乗り出す中、県内のとある場所に山小屋を借り、時間を過ごし始めたという。星が美しく、北極星の周りの同心円を長時間露光で撮影した時、偶然三脚を揺らしてしまい、二重になった同心円を見て閃いたという。星は動いている、そしてカメラも動くとどうだろうか、と。
予想外の出来事が赤松を駆り立て、自由な発想で観察デバイス(眼)自体を動くものとする方法にシフトしていった(移動するタレスのように)。手でカメラを振るなど様々な実験を経て赤松は、微細なモーション?コントロールのためのオリジナル?デバイスとプログラムを開発する。その後、カメラの動かし方(速度や方向)や撮影方法を変更しながら、システムを自身の延長として鍛えていった。そうして可視化されたのが本展での多様な軌跡である。
とはいえ今回のシステムは、タレスのように歩いていない。カメラは動くものの、三脚は固定されていた。今後の展開として想定できるのは、カメラを三脚から解放し動かしていくことだろう。聞けば赤松はすでに電動スライダーや自走ドーリーでの実験を行なっており、ゆくゆくは自転車への搭載を目指しているという。そうなれば「タレスの刻印」は、「クリティカル?サイクリング」や「新型グループライド」とつながり始めることになる。
サイクリングは、車輪を介して延長された身体(機械-身体)の移動である。iPhoneを介した「新型グループライド」で実現すれば、走行速度や経路など複数のパラメータによる不確定な動きから星々を撮影することになる。星の軌跡の可視化は一見不可能に思われるが、ぶれの調整等の改良に加えて、各メンバーが実践している自転車移動を介した実験の成果やノウハウが共有される中で可能になる日が来るかもしれない。「タレスの刻印」の根幹は、動く星と動く観察者の間にいかなるインターフェイスとパラメータを差し込み調整し、可視化のポイントを発見するかという探求なのだから。


展覧風景

 

Ⅳ. 深遠に向かって

宇宙が誕生して以来、世界のすべての要素は常に動的な変化の只中にある。星々も人間も同様である。しかし人間は、世界を把握するために、観察者としての自らを静止的な存在と位置づけていた。変容態としての自身の身体や知覚認識を背後に追いやり、観察する自らを動かず対象に向かう客観的な主体としたのである。それはルネサンス以降、遠近法の確立とともに強化され、近代以降の科学の大きな進展を支えてきた。そこでは観察者は対象から切り離された存在である。
しかしすでに19世紀の印象派が明らかにしたように、世界は変化しつづけており、見る側の変化、描いている間の光や事象の変化の中で静止的に静止的?統一的に世界を切り取ることは不可能である。そのことは20世紀初頭の量子力学以降、科学においても証明されている。そこでは観察者と観察対象が切り離しえず、観察という行為が対象に影響を与えうる。世界は動的かつインタラクティブなのである。
タレスの逸話は、近代科学以前の動的な世界との関わり方、世界の只中において世界を理解しようとする姿勢を象徴する。世界とは、その都度異なる形で立ち現れる。と同時にその背後に普遍的な世界の摂理が横たわっている。タレスは歩くことで、摂理そのものへと突き進んでいただろう。
世界は動いている。夜空で起きる天体の「ライブ?パフォーマンス」、それを「見ている」カメラ、カメラを介して可視化される人間中心的ではない世界。暗闇の中の星空…悠久の自然の中、つつましくただそこにいること。静謐に見えるものの、そこでは様々なものが動いており、いずれも饒舌で賑やかである。風が揺らす木々や草、虫、焚火の炎、機器、そして赤松自身…。世界は私たちが把握する以上のもので溢れており、そのことを思うと謙虚にならざるをえない。自分たちもその一部であり、可視/不可視の存在と絡まりながら存在しているのだと。そして人間は同時に、世界を対象化できる二重の存在として、デジタルを援用しながら自然に潜在する様々な情報—環境的無意識—を可視化することで、自然とつながり直すことができるのではないか。
宇宙からは、星の可視光に加え、ニュートリノや放射線、ガンマ線などが降り注いでいる。ニュートリノは、毎秒何十兆個も私たちの身体を突き抜けているという※8。世界は私たちが感知し把握する以上の膨大な時間と空間、そしてそれらをつなぐ動きで満ちている。科学や技術が新たな発見や可視化をもたらす度に、私たちはその彼方—知られていない、可視化されえない何か—の限りない深遠を思う。
赤松は、夜空に抱かれる体験の中で、限りない深遠に触れたのだろう。人間と技術の関係を検討してきた活動の中で、人間を生み出した世界や宇宙と対峙し、その深遠からのメッセージを彼なりに可視化し「翻訳」する作業として、「タレスの刻印」はある。それは私たち人間が、技術を通して自然や世界の摂理ととつながり直すことに他ならない。
世界は、可視/不可視を超えて動的なプロセスとして存在する。それは超新星爆発以降、連綿と稼働しつづけている。それは(あえて言葉にするならば)「詩的(ポエティック)/生成的(ポイエティック)」なものといえないか。アートやサイエンスは、その一部を開示し、私たちにその深遠へと誘って行く。タレスと同様に赤松もその深遠を受け止め、そこに向かって動きつづけてやまない。



作品

 

追記

本展は、デジタルアートを扱うギャラリー「NEORT++」で開催され、NFTとして100種類の画像が扱われた。同ギャラリー初の、クレジットカード(法定通貨)での決済も可能とした。トークンには撮影時のあらゆる情報がメタデータとして紐づけられており、画像を構成する要素として可視化されている。NFTもしくはクレジットカードでの購入者には、展示されたパネルと同等のアクリルプリントが郵送された。

 

※1 実際は私たちの身体も微動をつづけており、体内の器官や細胞レベルなどあらゆる場所が動きの中にある。

※2 https://www.businessinsider.jp/post-200606

※3 「クリティカル?サイクリング」(2016-)、「養老アート?ピクニック」(2017-2018)など。

※4 1995年の阪神淡路大震災。赤松も参加したIAMAS開学(1996)の前年である。

※5 「自転車は、理性と野生、都市と自然、ヴァーチャルとリアルを接続し、シンプルなバランスの循環を見出す指針となるだろう」(「クリティカル?サイクリング宣言」2016年7月31日、起草:赤松正行、松井茂、伊村靖子、瀬川晃、八嶋有司、綿貫岳海、湯澤大樹、後藤祐希)
https://github.com/CriticalCycling/Critical-Cycling-Manifesto

※6 https://github.com/CriticalCycling/Critical-Cycling-Manifesto

※7 携帯端末を介してグランドコントロール(司会進行)、ビデオ会議&位置共有、配信サービスなどでつながるサイクリングの新たな実験。
https://www.ove-web.com/staff-blog/media-download/1874/8452180dd2a0b2d9/

※8 ニュートリノが初めて観測されたのは、岐阜県神岡町(現:飛騨市)の「カミオカンデ」において、1987年3月のことである。16万光年前大マゼラン星雲の超新星爆発で大量に放出されたものだという。

 

撮影:山口伊生人