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三輪眞弘、サントリー音楽賞、佐治敬三賞をダブル受賞

去る11月19日、サントリーホールにて、第52回サントリー音楽賞と第20回佐治敬三賞の贈賞式が行われました。三輪眞弘のこれまでの業績と「ぎふ未来音楽展2020 三輪眞弘祭 ─清められた夜─」(2020年9月19日、主催:サラマンカホール)が評価され、両賞同時受賞に輝きました。
受賞に合わせて、岡田暁生氏に、改めて作品について振り返っていただきました。
あわせて、贈賞式で三輪が述べた「サントリー音楽賞 受賞のことば」を紹介します。


音楽体験の魔術性 サントリー音楽賞、佐治敬三賞受賞に寄せて

岡田暁生(京都大学)


1枚目:左より 堤剛(サントリー芸術財団代表理事?サントリーホール館長)、三輪眞弘(作曲家?IAMAS教授)、岩井浩昭(秋吉台国際芸術村?村長)、嘉根礼子(サラマンカホール支配人)
©サントリー芸術財団

三輪眞弘氏がサントリー音楽賞と佐治敬三賞をダブル受賞した。前者は2020年9月のオンラインイベント『三輪眞弘祭』を主たる理由とする三輪氏個人への賞、後者は同イベントの関係者を含む企画自体に対する賞ということになる。快挙というほかない。そして我田引水になるが、このイベントの成立前史については、実は私自身もかなり関わっていて、その経緯をまずは簡単に記しておきたい。
以前から私は三輪氏の音楽作品の熱烈なファンで、ということは、氏の作品に強くあるコンセプチュアルアート的な側面はほとんど知らず、まずは「ふつうに音楽として」それらを聴いて、いつも鮮烈な印象を受けていた。やがて作品の「コンセプト」(「音楽」であると同時に「哲学的批判的論考」でもあるという面)にも強く惹かれ始め、アルテスパブリッシングから出版された氏の著作集なども読み、そこにはアカデミックな人文学が今こそ真正面から考えるべき主題の数々が提示されていると強く感じるようになった。また氏の「人文工学」という発想(山室信一編『人文学宣言』、ナカニシヤ出版、2019年所収)、すなわち「認識科学には『モノを作って考える』という工学があるのと同じく、人文学にも『人文工学』としてモノを作ることを通して社会に働きかけるという営みがあるべきではないか」という主張に、大いに影響を受けた。
「人文工学」とは結局のところこれまで「芸術」と呼ばれてきたものではないか、三輪氏に人文学の最先端の知見に触れてもらい、人文工学としての作品を創ってもらうような企画ができないか? ― 2019年度からスタートした、京都大学人文科学研究所での三輪氏を班長とする共同研究班「『システム内存在としての世界』についてのアートを媒介とする文理融合的研究」は、こうした経緯で生まれた。
この共同研究は、思想史や科学史や人類学といった人文学側、実験科学者やシステム?エンジニア、そしてフォルマント兄弟の弟である佐近田展康氏、IAMASの前田真二郎氏と松井茂氏ら、「文?芸?理」融合的メンバーによっている。近年のいわゆるポストヒューマン哲学の方向、すなわち近代が信奉してきた「人間」は今や、テクノロジー?システムの中へ部品として組み込まれ、世界に働きかける「主体性」などもはや持たず、この状況はさらに加速していくだろうという感覚は、メンバー全員に共有されていたと思う。そのうえでなお、「人間にしか出来ないこと」の最後の砦が何かを考えたいと、メンバー全員が強く願っていたはずである。
コロナ禍が起きたのはまさに、この研究会がスタートしてそろそろ軌道にのってきた初年度の終わりであった。「机上の学問」ではなく、芸術作品という「モノ」を創ることでもって、感性的に社会の現実を受け止め、それに働きかけることを目標に掲げたこの研究会にとっては、その覚悟の如何が容赦なく問われる状況がいきなり出現したわけである。
コロナ禍が起きて以後、オンラインイベントが行われた2020年9月までの間、何度か研究会を催し、そこでコンセプトなどについて大いにメンバーで話し合った。ただしアカデミズムの人間がアートの現場の具体的な側面にあれこれ口を出すなど、私は絶対にやりたくなかったし、そもそも哲学思想といった「紙媒体」の思考をそのまま「翻訳」しただけの芸術作品ほどつまらないものはないであろう。両者に直接の因果関係があろうがなかろうが、「アカデミズム人文学の側のあれやこれやの認識をこれまで研究会で聴いてきた三輪氏」が何かを創るというだけでわたしたちは十分満足だったし、また芸術創造のプロセスを近くで垣間見られることも望外の喜びであった。

オンラインイベントについては、もう公演から一年以上経つにもかかわらず、私は正直なところ自分で口にして恥ずかしくない形容の言葉を、いまだに見つけられないでいる。経験則として思うのだが、異次元の音楽体験というものはどうやっても言葉と等価交換が出来ない。それは強烈な夢の記憶に似ていて、茫洋としているのに鮮明、はかなげでありながらいつまでも意識の芯に残り続ける。時系列に沿って整然と反復回想されるのではない。見たこと聴いたことのいろいろな断片が、それぞれ違った倍率で互いに折り重ないながら思い出される。
 この種の感覚はそもそもライブ経験(それもごく限られた圧倒的なそれ)に固有のものだ。このイベントにおいて三輪氏は、ライブのアイデンティティー二本柱である「時間&空間の共有性」のうち、たとえ後者は放棄せざるを得ずとも、時間の共有だけは死守しようとした。「眠くなってきたから後で見よう」を断固却下した。一回のみの配信としたこと、そして23時から26時という極めて異例の公演時間帯は、「どれだけ眠くなっても最後まで見てくれ、時間共有の一蓮托生だけは守ってくれ」という言外のメッセージにほかなるまい。臨場感とは究極のところ、空間の共有である以上に時間の共有なのだと私は確信した。
とはいえ、「再放送なし」は両刃の刀でもある。再放送がないということは、検証不能ということにほかならない。それは「作品性」を断念することであって、近代芸術が探求してきた客観的対象性は弱まり、上演は「儀礼」や「ハプニング」に近づかざるをえない。鑑賞者も観照者ではなく奇跡の目撃者に、批評は言い伝えの類に近いものとなる。
 これまでの三輪氏の創作を貫くモチーフの一つが、「儀礼(神?宗教)なしに音楽は成立するのか」という問いだったことは言うをまたない。儀礼に限りなく接近しつつ、どこまで作品性は担保しうるのか、その臨界点を探る試みだったといってもいいだろう。そして「作品」の本質とは何より反復可能性であり批評可能性であるとすれば(再現検証が不可能なら批評も成立しない)、今回のオンラインイベントは一体どこで作品性が確保されているのだろう? あのイベントを視聴して以来、気になって仕方がなかったのがこれであった。
もちろんわたしには、あのオンラインイベントが「オンライン儀礼」では決してなく、(ある意味で極めて伝統的な)強固な「作品性」を備えているという直観的な確信はあった。しかし「再放送」がないと、「一体どこが」を確認することが出来ない。いうまでもなく「確認」とは脱魔術の一歩であり、オンラインにおいてなおライブがもつ魔術性をなんとか担保することが三輪氏の意図だったとすれば、あれは作品でありつつ作品であることの検証を自ら拒むものだったとも思えてくる。何か芸術作品というものが根本に抱えているアンビバレンツの闇をのぞき見る思いでもあった。